「連句KUSARI」は99年2月1日からのんびりはじまりました。連句特有の表現「付けと転じのメカニズム」によって、過去から未来へ、ひたすら句をつないでゆく連句の鎖です。インターネットBBSで生まれた連句コミュニケーションのひとつの姿といってもいいでしょう。いま、ともに生き、互いの一句をたいせつにする連句をしていきたいと考えています。地球上のどこかで暮らしている日々のことなど、話しながら、聞きながら付けていきましょう
連句は575句と77句を交互につなげてゆく鎖です。付け句するときは
★原則として付け句が複数出たときは、時間的に早い付け句を優先とします。
★但し短句(七七句)と長句(五七五句)を間違えた句(たけくらべ)は無効とします。たけくらべ句はとばしてすすめてください。
★一句付くたびに新しい世界が開けてゆきますよ。コン!
モラルとエチケットは一般社会と同じです。お互いの句、お互いの人格を尊重しましょう。インターネットの付け句BBSとして、特に留意していただきたい点を付け加えます。
1112 瀕死のぼくを測る巻尺 藍
1113 ダイエットフラフラしても目盛り読む 麦の子1号
* すぐに食べてと届くぼたもち ミャーのママ
こんな感じでどうですか?
まず、ほかの人たちの句をおもしろがってくださいね。連句は2句ずつのセットが1世界です。つぎが付くとつぎの2句世界にずれていきます。あれあれ、こんな話に展開していくの?。付けるときは【連句の原則】通りです。付けと転じのメカニズムについては、先輩たちがいろいろアドバイスをしてくれます。だんだんに馴れていきましょう。
付け句遊びや付け句の練習をしてみたいかたはおしゃべりコーナーへもどうぞ。定期的にお題が出ています。
「連句KUSARI」はこれまでの「百韻」「歌仙」などのような定数(句数がきまっている)連句ではなく、伝統的な型式や構造をもっていません。当然ながら伝統的な式目、作法は強制されません。また、伝統的な式目、作法用語での議論はあまりしないようにしています。ご存じのように式目作法用語の定義は流派によって、習った先生によって微妙に違い、議論は流派論になりかねません。連句を知らない方たちを、聞き慣れない用語論で煙にまきたくないとも思っています。連句のメカニズムである付けと転じを、今通用する言葉で、合理的に納得していただければと願っていますのでご協力ください。ただし、伝統的な式目、作法ももとは「付け」と「転じ」という連句のメカニズムを実現するために工夫されてできたのですよね。だから、連句経験、伝統テクニックにきたえられた付け句そのものは大歓迎です。
前の句からのみつながる連句の鎖で、とにかく困るのは「一句の意味が通じない句」「前の句とどう付いているかわからない句」です。次が付けられない!転じられない!そんな時は、BBS上で作者に質問しましょ。みんなで話し合い、アドバイスもしあうこと。
付け句ができたらウチコシ句(打越句・前の前の句)をもう一度読んで、同じ言葉、発想、風景でないか点検を。
付け句は時間が早いほうを優先にしていますので、いそいで書き込めばはいります。でも、だからといってどんな句でも早く付けてしまおうというのは、前句に失礼ですよね。ここは連句の競争や練習の場ではありません。インターネット上ですが連句を通じた出会いと交流の場です。上手下手は問いません。ただ前句を誠実に読み、何かを感じ、付けましょう。そして、感じなければむりに付けない(−−それもとてもすてきなことです)。それぞれの人生のようにそれぞれの句を大事にね。
句に問題があるときや、その他みんながこまってしまったときには狐スタッフ(参照:狐スタッフ)が句の取り下げも含めた対応をすることがあります。そのときはお任せください。
とはいえ人生は失敗とあやまちの連続。みんなと流れてゆく「連句KUSARI」もまた同じ。毎月の記録を読むと、すてきなところも、ごつごつしたところも、(気を付けてはいるけれど)わからない流れ、転じてないところもあります。そのときのみんなの精一杯ということにしましょうね。(記録についてはスタッフが誤字の訂正、ルール上問題のある語句の調整その他必要最低限と思われる整理をしています)。
連句の一般常識、このBBSでの運用についての具体的なQ&Aを乗せてあります。
連句作品はどこの部分をとっても二句めは付き、三句めは転じるという文体をもっています。読むときは、二句ずつの世界がずれて、変化してゆくのを楽しみます。
「付け句は前句にのみ付いて、打越の句とは全く縁がない。このような関係を何回も 何十回も繰り返して一巻の作品が創り出される。このような詩制作の手法はどこの国の文芸にも見られない、私どもの先祖が新しく創り出した独自のものである。究極においては、この独自の運動メカニズムさえ失わなければ、その一巻がどのような形式をとろうとも、どのような式目を採用しようとも、私はそれを連句と認めようと思う」
(東明雅「連句の復活とその将来」『季刊連句』創刊号)
まったく、なんてユニークで、魅力的なメカニズムでしょう。私は連句を知った国文科の学生時代にほんとに驚きました。でも、連句はたぶんあまりにユニークすぎたために、ここ百年、理解されない孤独な歴史を歩むことにもなったのです。ええ、でももうその孤独は終り。おしゃべりな情報社会がやってきています。
[一歩もあとに帰る心なし]
なぜこんな変わったメカニズムができたのでしょうね。それは連句が独りでなくほかの人たちといっしょに作る表現として発達したからです。まず前の句をよく読む、理解する。自分に経験のないことでも、その世界にはいってみる。ほかの人を受けいれるーーこれが付けること。でも一方でウチコシを拒否する。自分はこう付けると主張するーーこれが転じること。受容と主張、これは人間関係そのものではありませんか。それにしても、ウチコシ(そして前の付け合い)をふり捨てて、新しいものへ向かおうという積極的な方向性には驚きます。私はね、なぜ連句が好きかというと、いつでも未来へ向かっている気がするからなんですよ。芭蕉も、連句について、「一歩もあとに帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり(三冊子)」と言っています。
――― 以上 拙著『おしゃべり連句講座』(NHK出版)の「基本講座1連句のメカニズム」を引用。